「道徳的に正しい行為と政策とは、社会の成員に最大の幸福をもたらすものである」  ― 功利主義

功利主義の主張を最も簡潔に定式化すると、

「道徳的に正しい行為と政策とは、社会の成員に最大の幸福をもたらすものである」ということになる。


ただ古典的功利主義は、今や人気のない時代遅れの哲学的教説の見本のような地位にある。
現代功利主義も含めて政治思想・政治哲学に於いて検討の対象にすらならないことが多い。

世界の存在性

■1.世界の存在は、対象/存在者の存在とは異なる。
−世界は、結局のところ、つねに現存するものであるが、手前に存在するものではない。
 
■2.世界は、意識の能動性に先立って、つねにすでに自らを意識させる。
世界は常にすでに(流れつつ立ち留まる時間のなかで)場として開かれている。
その場としての世界から、対象/存在者が際立ってくる。
−それ[世界という包括的な地平]は最も先行的な開けであり、それのなかで、われわれは、われわれ自身に出会い、周囲の諸事情に出会う。
 
■3.世界は、空間-時間そのものである。
−空間を与えること、時間を許すことが、世界の本質である。
−事物は、その形態、その位置、その持続をもっている。
しかるに、空間を与え、空間を許すものとしての世界は、事物にその空間を与え、その時間を許す。
世界は、すべての存在者に場所と滞留を許す。
世界は、存在者すべての「原根拠」である。
 
■4.客観的な空間−時間は、世界の(原初的な)空間と時間から構成されたものである。
−『無限の』空間は、世界空間ではなく、意味形成体である。
 
■5.客観的な空間−時間のなかに位置づけられることによって、対象/存在者は、本来の意味で対象/存在者となることができる。
−空間と時間のなかで、すべての現実的なものに、現実存在の尺度が割り当てられる。
人間の側での測定は、単なる追測定にすぎない。
−このように割り当てる限り、世界は、世界のなかで区画されたものとしてもちこたえ、時間的なものとして時続するものすべてにとっての、尺度である。
 
■6.ただし、世界の空間性とりも時間性が優先する。
−空間は、時間のひとつの次元である。
 
■7.世界そのものは、対象/存在者に注視が向かえば向かうほど、覆い隠されていく(世界は隠蔽される)
−世界の隠蔽には二つの事柄が絡んでいる。
人間/意識は、なじみ深い世界を忘却している。
「世界は、われわれに馴染み深いとともに忘却されている。故郷的であるとともに疎遠である。」
「存在者に関わり拘束されることによって、われわれは、すべての存在者以上に存在しているもの、われわれに蹲座イエスたをはじめて送りつけるものに、気をつかわなくなる。」
 
−しかし、こういうことが起こるのは、世界そのものが、存在者を際立たせることによって、おのれを隠してしまうからである。
「世界がみずから退去する」
「世界が、それが、内世界的なもの〔存在者/事物〕に場を開くという仕方で、自らを覆い隠す」
「世界は諸事物が目立つようになることによって、〔われわれのまなざしから〕滑り去る」
 
■8.世界は唯一的である。
−世界が唯一的である。
「世界が端的にひとつのものである。」
 
■9.事物から出発すると、世界が(志向的な)外部地平として現れる。
世界は、諸地平の地平ということになる。
しかし、これは世界の根源的な姿ではない。
世界は根源的には、志向性に先立って開かれる場である。
−世界は「すべての境域の境域である」が、これを外部地平として解してはならない。
現象学の志向性分析は、存在論的には未解明にとどまっている」
「地平現象は、世界を理解させないし、また、世界の現成する本質の洞察にもとづく解明こそが必要であることを理解させない」

「期待は、二重の偶発性の文脈のなかで創発的なシステムにとっての 構造価値 と 独自の種類の実在(=接続価値) を習得する」  「は、期待による選び出しというイミにおいてということである。」 ― ルーマン

「意味の自己言及的な処理はシンボルによる一般化を必要とする」

「社会的構造は信頼からなる」

信頼の形成は、素早く定位できるようなより狭いレパートリーを中間的に選択することでもってできる。
<なければならない>は、期待による選び出しというイミにおいて<できる>ということである。

信頼は不連続性に覆い被さり、不連続性を架橋し、このイミで一般化としてその実を確証することができる。



期待は試してみることを可能にするだけではない。

期待は、予測不可能であったものを、自分で理解し利用できるものに変換する。
このように、期待は、基底の状態に確かなものがないところで定位を可能にする。
そのため相手の期待を期待することもまた可能である。

「期待は、二重の偶発性の文脈のなかで創発的なシステムにとっての 構造価値 と 独自の種類の実在(=接続価値) を習得する」

内的実在論・形而上学的実在論

形而上学実在論とは、世界は心から独立したあるがままの対象からなる全体であり、その世界についての唯一の「真なる記述」が存在する

また真理とはそのような対象と記述との対応であり、それは認識論的含意をもたない。

要するに、理論はわれわれのいかなる正当化とも無関係に実在に対応しているか否に従って真か偽であり、その外在主義的描象の象徴は<神の視点>である。

パトナムがこの立場を放棄した理由は、この立場にとってあるべき唯一の指示関係を原理的に確定できないというモデル理論的考察 (レーヴェンハイム―スコーレムの定理)である。

問題の核心は、無限の対応関係C1,C2…の中から<真理の対応説>に相応しい関係をいかなる条件を吟味しても特定できないということである。

それゆえパトナムは<真理の対応説>を放棄する。


彼にとって真理とは、

1.最終的に収束する

2.<理想化された>合理的受容可能性

したがって、もはや実在の模写が真理でない以上、内的実在論の主張では、世界の「真なる記述」は複数存在し、その様々なヴァージョンの内部でのみ対象の存在への問いは意味をなす。

つまり心と世界の両方が協力し合って心と世界を制作するのである。


他方、合理的受容可能性は客観性を要求するがゆえに、

「正しい」と「正しいと思われる」を同一視する相対主義

また価値を「存在論的にいかがわしい」主観的なものと見なす実証主義的物理主義も

ともに内在的実在論によって断罪されることになる。

「実践のないところに歴史はない。」 ― サルトル

この具体的な姿を見失うと、単なる物事としてしか人間は歴史に登場してこないことになる。
 
実践がないところに歴史があるとすれば、人間は歴史経済的諸条件によって全面的に決定されてしまうことになるし、条件反射の総計でしかないことになる。
 
しかし相反する分子力の均衡からは歴史は生じない。
歴史は、企てがあり、超出があり、実践があるところににしか存在しない。

人間は何よりもまず一つの状況の超出、換言すれば、自己がそれたらしめられたところのものを似て、自ら何を作ることができるかによって特徴づけられる。

「社会秩序は可能か?」「全てのことが起こり得る”可能なもののカオス”=”複雑性”として世界に秩序を与えること、 つまり社会秩序を”世界の複雑性の縮減”により可能である」 ― ルーマン

ルーマンの理論の出発点は、「社会秩序は可能か?」という問いである。

その答えを、全てのことが起こり得る「可能なもののカオス」=「複雑性」として世界に秩序を与えること、

つまり社会秩序を「世界の複雑性の縮減」に求める。

世界の複雑性の縮減という生を方向付ける最もな根源的な機能を担うものを「意味」と名づける。

この「意味」を構成し、加工する主体を「システム」と名づける。

つまり人間の共同生活は意味によって世界を秩序化するシステムのはたらきに基礎付けられている、ということである。

「”シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア”が社会進化に従って分化し、発達してくる」 ― ルーマン

コミュニケーションとは選択の接続だが、ある行為や体験が遂行した選択が、後続の選択に肯定的に受容され、有効に伝達される保証はない。

このため、選択の肯定的な受容を動機づける機能をもった「シンボルによって一般化されたコミュニケーション・メディア」が社会進化に従って分化し、発達してくる、とルーマンは論ずる。

選択の偶有性が、環境に帰属化される場合を体験、行動するシステムに帰属化される場合を行為と区別した上で、4つのタイプのコミュニケーション・メディアを分類できる。

4つのタイプとは、

他我の「体験」から自我の「体験」への接続にかかわるメディア(例:真理)

他我の「体験」から自我の「行為」への接続にかかわるメディア(愛)

他我の「行為」から自我の「体験」への接続にかかわるメディア(貨幣、芸術)

他我の「行為」から自我の「行為」への接続にかかわるメディア(権力)