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■サルにもわかるフッサール現象学講座
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■散文メモ 格言集
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経済学は(も)苦手・・・・orz

経済学 入門―中級書

742 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 09:23:06 id:QffmpQyt0
>>733
ロールズの正義論は「ロールズ基準」として経済学に採り入れられてるんだが・・・

くだらない人文オカルティズムにかぶれてないで
定量分析的基礎付けのあるロバート・ライシュジェフリー・サックス
そしてジョセフ・スティグリッツの本読んだほうがいいね
この3人は差別や貧困を猛烈に憎んでいて、かつ科学的な政策提言をしている

ちなみに「人間の威厳」を失ってまで経済成長を求めよ、なんてのは
あの新自由主義の本丸、シガゴ学派でさえ言ってねーよwwwww

786 名前:名無しさん@十周年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 09:45:09 id:QffmpQyt0
>>773
道徳・倫理に目を向けた経済学を志向するならアマルティア・センの本がお薦めだ
ついでに経済学の基礎固めのために独学用教科書も示しておきます

初心者 『飯田泰之/中里透  コンパクトマクロ』

初級者 『グレゴリー・マンキュー  入門/ミクロ/マクロ』
       『ポール・クルーグマン  ミクロ/マクロ』
       『ジョセフ・スティグリッツ  入門/ミクロ/マクロ/公共』

中級者 『ジェフリー・サックス  マクロ』
       『ベン・バーナンキ  マクロ理論/マクロ政策』
       『オリヴィエ・ブランシャール  マクロ』

 
紹介ありがとうござます。
マンキューは100ページほどで投げてしまった。
スティグリッツとセンは積んだまま。
 
どうも経済学や金融の知識は定着しない。。。
使う機会がなさすぎる。

■「哲学」と「倫理」入門 ―哲学と倫理に対する絶望―

「真理など存在しない」
このような過去においては最も恥ずべく無価値なこととされていた真理の放棄は、我々の時代によって精神の最高の勝利にまで高めあげられている。
理性に対する絶望は、はじめのうちはまだ苦痛と悲しみをともなっていたが、やがて宗教的及び倫理的無思慮が、次には自ら啓蒙と講する皮相浅薄な知識(カント哲学)が、平気で自己の無力を告白し、より高い闘心を完全に忘れさせることに自慢の種を見出すにいたった。
 
そして最後に、いわゆる批判哲学(カント)が、永遠なもの、神的なものについては何も認識できないということを”証明した”と主張することによって
永遠なもの、及び、神的なものに関する無知を安心させたのである。
批判哲学(カント)こそが、あらゆる知的努力の目標であり結果であると称した、
この無知の学説は、希薄な知識と性格によって喜び迎え入れられ、好んで利用された。
真理を認識しようとせず、ただ現象的なもの、時間的なもの、偶然的なもの、一口に言えば、”空虚なもの”のみを認識しようとするこのような空虚が、哲学において幅をきかせており、
”理性的認識”に対するこのような断念が、これほどまでの流行に達するほど、ドイツの哲学は酷い状態に陥っている。
 ヘーゲル『小論理学』序文

哲学の目的

哲学の目的、哲学が目指すべきものは、不可謬性(あるいは理論的な永遠の真理)であってはならない。

「哲学が再生するためには、普通の人々が抱える問題を解決するための方法とならなければならない。」

自分の時代に生じている問題の解決することに対して貢献することができたとしたら、それは決して小さな成果ではない。

また、その際に哲学者が考えたことが将来において修正されれることは避けられないであろうし、場合によっては放棄されることさえ当然のこととして覚悟しなければならない。

哲学者として我々に課せられているのは、「不朽の名声」を得ることではないのである。

『真理と方法』 Wahrheit und Methode 1960

『真理と方法』 Wahrheit und Methode 1960

20世紀のドイツ語圏で最も重要な哲学者の一人H.G.ガダマーの主著
出版以来、哲学だけでなく、社会学文化人類学、法学、文学研究(受容美学)などに多大な影響を与え続けている。
 
師のハイデガーを受けて、本書における出発点は、ディルタイ風の精神科学における理解の概念とあまりにも美学的側面に傾斜した芸術観への批判であり、それと相互補完的に、近代科学において主導的な「方法」の思想からの距離である。
 テクストの「理解」および「解釈」を目標とする精神科学のこれまでの目標は、著者の意図の*1追理解 、もしくは作品の背後にある著者の体験の*2追体験であった。
そこには、著者の気持ちになる、いやなることができるとする暗黙の心理主義的前提があったとガダマーは批判する。
それに相応して芸術も「美学的な」教養体験の対象でしかなくなっている。
 
だが理解とは過去とのこのような同一化ではない、とされる。
彼に言わせれば、我々が過去のテクストに向き合うには、そこに自分たちの未来に向けた何らかの問いへの回答を求めているからである。
 
だが解答の前提である問いは、テクストの外から持ち込まれるのではない。
そのテクストの解釈する課程の中ではじめて出てくるのである。
そのようなテクストとの「対話」のなかで現代に訴えかけてくる知こそが解釈の対象となる。
 だが、実はどのような解釈の仕方であれ、歴史意識の成立以来の歴史的理解の仕事は、基本的にそのような対話の運動としてされていた。
 その意味で本書がめざすのは、解釈の技術論ではなく、「我々の意志や行為を超えて、実際に我々に起きていること」の記述である。
 
すなわちハイデガーの言うとおり、理解は現存在遂行形式である。
我々はすでに過去を、そして世界をなんらかのかたちで常に必ず「理解」している。
その「理解」の歴史が西欧の哲学の歴史でもある。
 
したがって理解が歴史を持つという事態そのものが、*3解釈学の可能性の根拠であると同時に、解釈学の対象ともなる。
したがって、いっさいの我々の知的行為は、自分ではそのつど確認できないある*4伝統の枠組みによって起きている。
そのことの意識をガダマーは*5作用影響史的意識と名づけ、我々は常に著者が自身を理解したのとは違うように理解しているが、その我々の理解も自身で自覚している以上のものであることを知らなければならないとする。
作用影響史は「理解の一般的な構造契機」なのである。
 
 それゆえに啓蒙主義以来批判されてきた「*6先入見」も伝統によって我々があるものをある視点で見るように仕向けられているという意味で、逃れるころができないものとしてのその「復権」が論じられる。
 
また、そうした過去との対話のダイナミズムは、テクストと私を包み込む言語性としての歴史である以上、主体と客体の区分によって成り立つ近代自然科学の方法論意識は、認識という事態の切り詰めでしかないとされる。

イマヌエル・カント 解説 ― Immqnuel Kant 1729-1804

Immqnuel Kant 1729-1804

ドイツの哲学者。

哲学、数学、自然科学、神学などを学んだ。

70年後、論理学・形而上学の正教授として活躍した。

【カントの生涯】

カントの講義は、単に哲学に留まらず、数学、物理学、自然地理学、自然法人間学、教育学、鉱物学など広範多岐にわたり、1796年冬学期まで続けられた。

1786年と88年には大学総長となり、名声を博したカントは、生涯独身であったが、社交を好み、自宅に知人を招いて会食と対話を楽しんだ。
 

【カント哲学の時代区分】

カントの哲学的活動の歴史を、まず?前批判期と、?批判期、?後批判期と大別し、さらに?を三期に区分することができる。

第一期(1755-62)は、ライプニッツ-ヴォルフ哲学の影響のもとに、自然学と形而上学の著作、例えば、カント-ラプラス星雲説の典拠となった『天体の一般自然史と理論』[1755]や『形而上学的認識の第一原理の新解明』[1755]が書かれた。


第二期(1763-69)は、ニュートン的自然学の経験論的基礎の重要性に鑑み、独断論的合理論の形而上学に対する懐疑が生じ、神の存在に関しては論証の不必要と確信の必要性とを力説し『神の存在論証のための唯一可能な証明根拠』[1763]、スウェーデンボリを批判した『視霊者の夢』[1766]などを書いた。


第三期(1770-81)は、ヴォルフの形而上学から批判的形而上学への発展に備えた時期であり、カントは、就職論文『感性界と叡智界との形式と原理について』[1770]において、感性界と叡智界を区別し、認識における感性の役割を確保し、人間的認識の有限性に着目し、自然学的認識を超えた形而上学的認識をプラトン流に後者の世界に適用し、合理的独断論への無反省的信仰を解消しようとしていた。

批判哲学の時期は、1781年『純粋理性批判』の出現と共にに始まる(第二版、1787年)。

この時期に属するのは、

プロレゴメナ』[1783]  
『人倫の形而上学の基礎づけ』[1785]  
実践理性批判』[1788]  
判断力批判』[1790]  
『単なる理性の限界内における宗教』[1793] などである。

第三の項批判的時期、カントの創作活動の最終時期は、論理学、教育学、自然地理学、実用的人間学についての講義録の出版と、いわゆるオープス・ポストゥムの構想である。

後者は1938年になってG・レーマンによって編集版されたものであるが、カント批判主義とドイツ観念論形而上学、特に自然化ファクトの決定的な統合帯をなすものである。

【カント哲学の骨格】

純粋理性批判』において、カントは直観と思惟、感性と悟性を認識の二台要素おいて、カントは直観と思惟、感性と悟性を認識の二台要素としてとして際立たせ、両者の統合的統一を強調し、認識の「コペルニクス的転回」を遂行して、形而上学と認識論の領域に考え方の革命をもたらした。

内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」と言われるように、直観と思惟(概念)は統合としての認識が成立するためには、まず認識の素材・内容が直観の形式(すなわち「純粋直観」としての空間・時間を通じて与えられなければならない(経験的実在論)。

しかし、認識が普遍性を獲得しようとすれば、認識には経験的ならざる要素が必要である。

実際にも、認識主観(悟性=人間精神)は、経験の一切に先行しつつ経験から独立に、しかも各々のの経験(内容)に適用されうる普遍的形式たる純粋悟性概念(カテゴリー)を自らの内に予め有している(超越論的観念論)
このように経験的実在論と超越論的観念論との一致点において、直観と概念の統合としての「アプリオリな総合判断」が成立し、その最高原則が「経験一般の可能性の諸制約である」として命題化されるのである。
さて経験の対象は、物自体ではなく、物自体の現象(現象体)にすぎず、経験不可能な物自体に関する純粋な至高の構成体、可想体(ヌーメナ)は、理論的化学的認識の対象たりえない。
カントは、経験不可能な無制約者(世界、霊魂、神)を一つの理論的認識の対象の如く扱う、伝統的「特殊形而上学」としての合理的宇宙論・心理学・神学を批判して、これらの無制約者を自由、不死、神という三つの実践的理念の図式へと換骨奪胎することによって、実践的定説的形而上学(本来の形而上学)への道を開くのである。