『真理と方法』 Wahrheit und Methode 1960

『真理と方法』 Wahrheit und Methode 1960

20世紀のドイツ語圏で最も重要な哲学者の一人H.G.ガダマーの主著
出版以来、哲学だけでなく、社会学文化人類学、法学、文学研究(受容美学)などに多大な影響を与え続けている。
 
師のハイデガーを受けて、本書における出発点は、ディルタイ風の精神科学における理解の概念とあまりにも美学的側面に傾斜した芸術観への批判であり、それと相互補完的に、近代科学において主導的な「方法」の思想からの距離である。
 テクストの「理解」および「解釈」を目標とする精神科学のこれまでの目標は、著者の意図の*1追理解 、もしくは作品の背後にある著者の体験の*2追体験であった。
そこには、著者の気持ちになる、いやなることができるとする暗黙の心理主義的前提があったとガダマーは批判する。
それに相応して芸術も「美学的な」教養体験の対象でしかなくなっている。
 
だが理解とは過去とのこのような同一化ではない、とされる。
彼に言わせれば、我々が過去のテクストに向き合うには、そこに自分たちの未来に向けた何らかの問いへの回答を求めているからである。
 
だが解答の前提である問いは、テクストの外から持ち込まれるのではない。
そのテクストの解釈する課程の中ではじめて出てくるのである。
そのようなテクストとの「対話」のなかで現代に訴えかけてくる知こそが解釈の対象となる。
 だが、実はどのような解釈の仕方であれ、歴史意識の成立以来の歴史的理解の仕事は、基本的にそのような対話の運動としてされていた。
 その意味で本書がめざすのは、解釈の技術論ではなく、「我々の意志や行為を超えて、実際に我々に起きていること」の記述である。
 
すなわちハイデガーの言うとおり、理解は現存在遂行形式である。
我々はすでに過去を、そして世界をなんらかのかたちで常に必ず「理解」している。
その「理解」の歴史が西欧の哲学の歴史でもある。
 
したがって理解が歴史を持つという事態そのものが、*3解釈学の可能性の根拠であると同時に、解釈学の対象ともなる。
したがって、いっさいの我々の知的行為は、自分ではそのつど確認できないある*4伝統の枠組みによって起きている。
そのことの意識をガダマーは*5作用影響史的意識と名づけ、我々は常に著者が自身を理解したのとは違うように理解しているが、その我々の理解も自身で自覚している以上のものであることを知らなければならないとする。
作用影響史は「理解の一般的な構造契機」なのである。
 
 それゆえに啓蒙主義以来批判されてきた「*6先入見」も伝統によって我々があるものをある視点で見るように仕向けられているという意味で、逃れるころができないものとしてのその「復権」が論じられる。
 
また、そうした過去との対話のダイナミズムは、テクストと私を包み込む言語性としての歴史である以上、主体と客体の区分によって成り立つ近代自然科学の方法論意識は、認識という事態の切り詰めでしかないとされる。