イマヌエル・カント 解説 ― Immqnuel Kant 1729-1804

Immqnuel Kant 1729-1804

ドイツの哲学者。

哲学、数学、自然科学、神学などを学んだ。

70年後、論理学・形而上学の正教授として活躍した。

【カントの生涯】

カントの講義は、単に哲学に留まらず、数学、物理学、自然地理学、自然法人間学、教育学、鉱物学など広範多岐にわたり、1796年冬学期まで続けられた。

1786年と88年には大学総長となり、名声を博したカントは、生涯独身であったが、社交を好み、自宅に知人を招いて会食と対話を楽しんだ。
 

【カント哲学の時代区分】

カントの哲学的活動の歴史を、まず?前批判期と、?批判期、?後批判期と大別し、さらに?を三期に区分することができる。

第一期(1755-62)は、ライプニッツ-ヴォルフ哲学の影響のもとに、自然学と形而上学の著作、例えば、カント-ラプラス星雲説の典拠となった『天体の一般自然史と理論』[1755]や『形而上学的認識の第一原理の新解明』[1755]が書かれた。


第二期(1763-69)は、ニュートン的自然学の経験論的基礎の重要性に鑑み、独断論的合理論の形而上学に対する懐疑が生じ、神の存在に関しては論証の不必要と確信の必要性とを力説し『神の存在論証のための唯一可能な証明根拠』[1763]、スウェーデンボリを批判した『視霊者の夢』[1766]などを書いた。


第三期(1770-81)は、ヴォルフの形而上学から批判的形而上学への発展に備えた時期であり、カントは、就職論文『感性界と叡智界との形式と原理について』[1770]において、感性界と叡智界を区別し、認識における感性の役割を確保し、人間的認識の有限性に着目し、自然学的認識を超えた形而上学的認識をプラトン流に後者の世界に適用し、合理的独断論への無反省的信仰を解消しようとしていた。

批判哲学の時期は、1781年『純粋理性批判』の出現と共にに始まる(第二版、1787年)。

この時期に属するのは、

プロレゴメナ』[1783]  
『人倫の形而上学の基礎づけ』[1785]  
実践理性批判』[1788]  
判断力批判』[1790]  
『単なる理性の限界内における宗教』[1793] などである。

第三の項批判的時期、カントの創作活動の最終時期は、論理学、教育学、自然地理学、実用的人間学についての講義録の出版と、いわゆるオープス・ポストゥムの構想である。

後者は1938年になってG・レーマンによって編集版されたものであるが、カント批判主義とドイツ観念論形而上学、特に自然化ファクトの決定的な統合帯をなすものである。

【カント哲学の骨格】

純粋理性批判』において、カントは直観と思惟、感性と悟性を認識の二台要素おいて、カントは直観と思惟、感性と悟性を認識の二台要素としてとして際立たせ、両者の統合的統一を強調し、認識の「コペルニクス的転回」を遂行して、形而上学と認識論の領域に考え方の革命をもたらした。

内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」と言われるように、直観と思惟(概念)は統合としての認識が成立するためには、まず認識の素材・内容が直観の形式(すなわち「純粋直観」としての空間・時間を通じて与えられなければならない(経験的実在論)。

しかし、認識が普遍性を獲得しようとすれば、認識には経験的ならざる要素が必要である。

実際にも、認識主観(悟性=人間精神)は、経験の一切に先行しつつ経験から独立に、しかも各々のの経験(内容)に適用されうる普遍的形式たる純粋悟性概念(カテゴリー)を自らの内に予め有している(超越論的観念論)
このように経験的実在論と超越論的観念論との一致点において、直観と概念の統合としての「アプリオリな総合判断」が成立し、その最高原則が「経験一般の可能性の諸制約である」として命題化されるのである。
さて経験の対象は、物自体ではなく、物自体の現象(現象体)にすぎず、経験不可能な物自体に関する純粋な至高の構成体、可想体(ヌーメナ)は、理論的化学的認識の対象たりえない。
カントは、経験不可能な無制約者(世界、霊魂、神)を一つの理論的認識の対象の如く扱う、伝統的「特殊形而上学」としての合理的宇宙論・心理学・神学を批判して、これらの無制約者を自由、不死、神という三つの実践的理念の図式へと換骨奪胎することによって、実践的定説的形而上学(本来の形而上学)への道を開くのである。