サルにもわかるフッサールの現象学講座3

8 名前:分からん奴(理系)[] 投稿日:2000/01/23(日) 05:09
私の周りの客観は、私の周りに存在する人達の主観の平均に過ぎない
私の内側の客観は、私の人生に隣接した人達の主観の残骸に過ぎない

 

14 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/24(月) 02:09

>8
>私の周りの客観は、私の周りに存在する人達の主観の平均に過ぎない

おもろいこと言うやんけ。現象学間主観性ゆうのがある。
それと似たような考え方や。だいぶちゃうけどな。
一つ質問や。
他者の主観の平均があんたの客観なんやろ? そしたらあんたの周りに存在する
人の主観を、あんたはどうやって認識するんや。その認識は信用できるんかい。
つまりやな、他者の主観というのは、あんたにとっては客観と違うんか?
そやし、ちょっとおかしなテーゼやな。客観を保証するのに新たな客観をもってき
とる訳やから。考えてみてくれ。
 

30 名前:名無しさる(8,20)[考えてみたので答えてみる] 投稿日:2000/01/26(水) 01:03
>一つ質問や。
>他者の主観の平均があんたの客観なんやろ? そしたらあんたの周りに存在する
>人の主観を、あんたはどうやって認識するんや。
「主観」ってコトバは、「主観を排して客観的に現象を捉えませう」みたいに使うよなー
「我思ふ」で良いんだろーなー
って事は、「周りに存在する 人の主観」は、「彼思ふ」かなー
「どうやって認識」は、道徳の時間に習ったよなー
「相手の身になって考えましょう」ってコトかなー
相手の身になるには、相手の性格、才能、育ち、学歴、収入、身長・・を値踏みして、
自分に当てはめてみるンかなー
「値踏み」ってのは、世の中の全てのパラメータを知って、相手の全てを知って、評価して・・
ムツカシそうだなー
座標を比較せにゃイカンのだから、自分の座標を把握せんといかんなー
これが一番ムツカシそうだなー
でも、みんなそれなりに出来てるから、社会って成り立ってるんだろうなー

>その認識は信用できるんかい。
信用するもなにも、確認する術すら知らんのだが・・

「もしもーし、何してた〜」(最近マンネリだなー、話題も無いし・・)
「キミのコトを考えてた」(せっかく下平さやりんで作業中なのに、醒めるじゃねェか)
「ワタシもーーーーーー」(クサいセリフ吐いてンじゃねえヨ。鏡でも贈ったろか!)
現象学を身につけると、判るようになるのかなー

33 名前:若頭[] 投稿日:2000/01/26(水) 04:18

>30
お前、おもろい。立派に「還元」しとるやないけ。そやし「還元」は誰でも
出来るんや。
それはさておき「座標」いう言葉が出てきた。
その「座標」を客観的なものとして想定(命綱をつなげたまんま)すんのは、現象学ではルール違反や。
つーか哲学史の流れに逆らうことや。

そしたらポストモダンみたく認識を諦めるか、それとも主観の内部に「座標」
をおくか、二つに一つや。
いきなり「他者の主観の認識」は難しいけど、「物の認識」「コトの認識」をふっ飛ば
してやってみるか。
現象学では「他者の主観」のことを「他我」っていう……………やっぱあかん。
「物の認識」からやらな、説明不可能や。
しかし、それもまた今度や。ワシ疲れた。
 
>25

25 名前:話かわるけど[] 投稿日:2000/01/25(火) 17:58
若頭さん、立花隆さんほんもの?
ぼくもロビーと哲学両方見てるんだけど。
世代が違うから音楽はビートルズしかわかんないよー。
あのレス見てもいまいち決定的かどうかわからん。
今度哲学の質問してみてよ。
立花さん、哲学的なことにいちばん興味があるっていつも言ってるから。

あれニセもんや
現象学的還元した結果、ワシの内在がそう告げよる。
理由はいくつもあるけど、立花隆はカルト的なトムウェイツのファン
の筈や。ワシがわざわざトムウェイツのベスト3曲書いたのに、ヤツは
トムウェイツのトの字も出さんと、誰でも書けそうなミュージシャンあげとる。
その板かロビーでばらしたろ思たけど、やめといた。
結構がんばって書いとる。ヤツも必死や(笑)。騙されとる人はかわいそうやけど。
 

123 名前:若頭[] 投稿日:2000/02/24(木) 01:03

形而上学的思考って何?

これも一般的にはかるーい気持ちで、日常を超えた「超越的」とか、「精神的」
とか、形にならない「抽象的なもの」とかいう意味で使われとるよな。
120で書いたようにワシはニーチェの概念を援用しとる。ニーチェに言わせれば
キリスト教を含めてそれまでの形而上学は、「禁欲主義的理想」というものに支え
られた「真理は必ず存在する。いや存在しなければならない」という信仰なんや。
つまり、形而上学的思考」とは、
 
「世界」には何か根本原理が存在していなければならないという「真理への意志」
 
やな。
ニーチェはそれをルサンチマンと言った。ワシもまったくそのとおりや思う。
ま、デリタに言わせれば現象学も「形而上学的予断を隠している」ということ
になる
けど、それはまた別の話しや。。